2016/01/31

カリフラワー・フラワー・フラワー

お店でカリフラワーを選んでいたら芋虫が一緒にパッキングされていて、これは、何方が悪い訳でもないけれど(勿論芋虫にとっては災難以外のなんでもない)苦手な方には卒倒ものだなあと思いました。比較的平気なわたしこそがこのカリフラワーを購入すべきかとも思いましたが、いつもと同じ値段なのにいつもよりだいぶ小さくて、暫く悩んだ末に買いませんでした。滅多にない機会なのに、お顔も知らぬ何方かのお役にも立てず面目無いです。

年末頃から顔の皮膚の炎症に悩まされていました。見た目は頗る悪いけれど、何だか如何でも良いやという気分で放り出していたら日に日に悪化して唇まで腫れるようになり、食べたり話したりの生活に差し支えるようになってしまったので、重い腰をあげて病院に行きました。知人に紹介して戴いた病院で、兎に角、診察が速いのです。ちょっと肌を診て何度か触って、同時に問診、カルテを書きながら次はいついつ来てねと伝えられて、注射を打たれて気がついたら薬局に居ました。いつもこうです。でも処方された飲み薬と塗り薬で、何週間も悪化し続けていた炎症が少し落ち着きました。効きが良いのもいつものことです。本当に良い病院を紹介して戴いたなあと思います。

カリフラワーとブロッコリー。似ている二人だけど、カリフラワーは淡色野菜で、ブロッコリーは緑黄色野菜なのですね。あ、今日で一月が終わりなのですね。あらあら、あららら。
posted by 浮森かや子 at 01:06 | Comment (2)  | 日記

2016/01/25

ドーナツ哲学

近頃はよくドーナツについて考えています。

ドーナツの穴とは、抜きとられたものです。空間です。指を入れて遊ぶこともできるし、リボンを通して首飾りにすることもできます。つまりは隙間で、存在しないものです。しかし、ドーナツをドーナツたらしめているものもまたドーナツの穴です。一部の例外を除き、穴がなければ、誰もが思い描くドーナツの定義を満たすことは困難になります。

穴はドーナツと一緒に常に存在して、ドーナツが食べられてしまうのと一緒に消えてなくなります。ドーナツが存在する限り、穴はくっきりと存在し続けます。穴を空けると云うのは、そこに永遠を作ることなのかもしれません。ドーナツの穴を腐らせることも、ぎゅうっと握り潰すことも風化させることもできない。穴が空いて永遠を得て、ドーナツと一緒に食べられる。ドーナツの穴は何方にも冒せない領域のように思います。

ちらりと調べたところ、ドーナツについて哲学されている方は世の中に沢山おいでのようです。ドーナツの穴を食べる方法を論ずる方もいらっしゃるようですが、何だか難しそうなお話でしたのでここでは割愛致しまして。

そんなわたしのドーナツ哲学。
posted by 浮森かや子 at 01:10 | Comment (0)  | 日記

2016/01/05

二〇一六年 事始め

ごく幼い頃から自分に課している制限の中に、『死ね、と、死にたい、と云う言葉を口にしない』と云うものがございます。理由はごくごく一般的なものですし、御説教じみてもまいりますので割愛致しますとして、今のところ、なんとかまもり続けています。

ではわたしが『死にたい』とか『死ね』とか微塵も考えず清廉潔白に生きているのかと申しますと、数え切れないくらい考えています。悲しくて、屹度この先も悲しいだろうから、この時点から向こう、存在していたくない、一層、と。そんなふうに。直ぐに思い出すことはできませんが、『死ね』と過ぎってしまったことも有るかもしれません。

でも、生きているって有り難いことです。中学時代の同級生で、当時は教室でよく話していた、でも卒業してからは殆ど交流のなかった男の子が、大学時代に突然亡くなった時、昨日まで思い出しもしなかった同級生の、顔を名前を幾つもの他愛ないやり取りを思い、止め処なくわあわあ泣きました。御通夜では彼のお祖母様が泣き崩れていて、自分の祖母と重なり、こんなに悲しい光景はないと思いました。お互いに大人になって、もう二度と会うことがなくても、どこかで笑ったり怒ったりしながら暮らしている。もしかしたらいつか偶然すれ違い、『久し振りだね』なんて会話を交わすかも知れない。好きだった人達にもあんまり好きになれなかった人達にも、そんな当たり前を自分が無意識に思い描いていたのだと初めて知り、でも其れは全部生きていてこその、日常のような願望です。

美味しいものを食べると、これはあの人が好きそう!と思うと、食べて貰いたくなります。一緒に食べたくなります。笑顔が見たくなります。死んでしまえばかないません。御仏壇に供えても、声が聴きたい。美味しいよって笑って欲しい。でも、こればっかりは何をしたってもう絶対にかなわないのです。お家に持って行ったって、『よく来たなあ』と、もう云って貰えない。

昨年はそんなことをよく考える一年になりました。生きていても、健康な間しか会いたい人に会いにいけません。つらそうな時に抱きしめたくても、他愛のないやり取りで笑い合いたくても、一緒にお出掛けがしたくても、並んで夕陽を見るのも空気の匂いを感じるのも、健やかでこそです。人には寿命があるから、当たり前の幸せにもいつか必ず御終いが訪れます。だから今日がどんな日でも、手でペンを持ち、足を動かして、思いを伝えて、聴くことのできる今は、本当はとても幸せな価値あるものです。恩返しをしたいことがわたしには沢山あるので、穏やかな時間が少しでも長く続きますようにと願わずにいられません。

わたしの楽曲を聴いてくださる方の中には、多分実際にお会いしたことがない方もいらっしゃるかと存じますが、一度だけ御耳を傾けてくださった方でも、これからもうずっとお会いすることのない方でも、心から感謝を申し上げたいし、どこかの土地で、その方とその方の大切な方達が、笑ったり怒ったりしながらお健やかに暮らしておいでなら嬉しいと思います。

旧年中も皆様方より温かい御気持ちを沢山頂戴し、有り難うございました。
本年が実りある優しい日々となりますように。
posted by 浮森かや子 at 01:58 | Comment (0)  | 日記