魔女の宅急便でキキの魔法が使えなくなり、ジジの声も聴こえなくなってしまうくだり。わたしはあのくだりが本当につらくて苦手なのです。どの映画にもつらい場面はあるけれど、この場面は静かにずしんと心臓に重りと寒気を乗せられる心地です。それは、好きなジブリの映画は?と聞かれた時に、魔女の宅急便!と即答できない理由でもあるのですけれど。
このくだりの解釈が色々あることはボンヤリ知っていて、それぞれの解釈を詳しくは知らなくて、原作は小学生の頃に図書館で借りて読んだきりです。そんな知識程度のわたしが先日ふと考えた勝手な解釈を語ってみても宜しいでしょうか。
今まで息をするようにできていたこと、人生を一緒に歩いてきた筈のものが、唐突に、今まで如何していたのか皆目解らなくなる瞬間があると思うのです。それは、絵を描くことだったり、歌うことだったり、そもそも生きることだったり。魔女の宅急便のあのくだりは、もしかしたらそれ≠ネのではないかなあと思いました。
私事ながら、ちいさな蓄音劇場を作り終えてから、曲が書けなくなりました。それまでは生きているだけで生まれかけの曲の一節がぽろぽろ自分の中からこぼれていたのに、何も出てこなくなってしまったのです。わたしにとって曲を書くことは、娯楽でもあったけれどそれだけではなくて、もっと自分と密接に繋がっていて、多分、書かないと歌わないと生きていけない、そういうものでした。息を吸ったら吐かないと苦しくなっちゃうそんな類の。これでも上手く説明できている訳ではないのですけれど。
色々な指標を一気に失ったと思っていた時期でしたので、自分が暫く曲を書いていない、自分の中に何の音楽もながれていないことに気付いた時は、嗚呼まったくもって空っぽになったなあと感じました。内臓をごっそり抜かれたような心地でしたが痛覚も一緒にどこかへいってしまったようで、案外平気で生きられました。丁度、ちいさな蓄音劇場はベストアルバムという立ち位置で、廃盤で再録をお待たせしていた楽曲も収録できたので、キリも良いような気がしたのです。
わたしはずっと、それこそ曲を書き始めた中学生の頃から、悲しいことがなくなって幸せいっぱいになったら、歌を書けなくなるかも知れないと考えていました。でも実際に書けなくなるのは、多分、欲望をなくした時です。○○をしたいとか、○○さんと一緒に居たいとか、○○が欲しいとか、今の自分を変えたいとか。そういうものを全部なくしたら、書けなくなるのだなあと思いました。わたしの場合です。
でも2017年の春に思いもかけないことが起きて、それから徐々に色々なことを思い出すことがました。と云うと記憶喪失みたいで若干の語弊があるのですが何卒ご容赦くださいませ。兎に角その春の一連の出来事は、幸福そのものです。
また歌いたい、お芝居がしたい、と思いましたが、怖くもありました。手を離すなんて罰当たりなことをしたから、吃驚するくらいに何にもできなくなってしまって、正直戸惑いました。思春期の頃からこれでもかと憧れて始めたことなのに、楽しさよりも恐怖心が上回るなんて。けれど自分には矢張り歌やお芝居が必要で、やればやるほど思い描くものとの落差に打ちのめされて、とっても情けなかったけど、また始めたいと思いました。
魔女の宅急便のクライマックスにデッキブラシで飛んだキキは、とっても格好良かったです。物語序盤のキキなら、どんなに強い風が吹いていても、きっとあんなにふらふら飛んだりしない、軽やかにトンボを助けられた筈です。けれど、落っこちたり、人とぶつかりそうになったりしながら、必死で飛んで間一髪でトンボを助けたキキは本当に素敵だった。生まれ持った魔女の血とお母様に貰った箒でなく、自分で選んだ血と箒で飛んだのですね。
前述の通り、暫く曲が書けませんでしたが、少し前に1曲ぽろんと書けました。そうしたら堰を切られたように何曲も何曲もこぼれてきて、これはこれでまた戸惑いました。どうも手が追いつかないし何より連日の寝不足に悩まされましたが、自分の音楽とたわむれるのは楽しくて、もっと甘えたで幼稚だった頃からいつでも、わたしの歌だけはわたしの傍に居てくれたことを思い出しました。
自分にとっての2017年はそんな1年でした。1文字に纏めることは難しいけれど、あと2文字許して戴けるならば、再確認の1年。好きなこと、好きなひと。再確認できました。同時に反省の1年でもあります。反省を大事に、精進してゆきたいです。
2018/01/01
魔女の宅急便が好きだということ
posted by 浮森かや子 at 03:11
| 日記