元旦の朝はひとりで日の出を見に行きました。広島には山がたくさんありますので、前日からGoogleマップとにらめっこをして、今年はどの山に登ろうか、こっちの山は東側にもっと高い山があるから…など思案し、目的地は馴染み深くて少し御無沙汰していた場所に決定しました。
目が覚めると直ぐに薬缶でお湯を沸かし、熱い紅茶を淹れて魔法瓶に注ぎ、寒さに備えた厚着をして出掛けます。世界をひとりじめしているような夜明け前の独特な空気の中で、普段は通らない道を歩く気分は素敵でした。
目的地に着いて、紅茶を飲みながら夜明けを待ちました。東側の山が薄っすら青くなっていくのが見えます。西側の空はピンクとすみれ色に光って滲んでいました。南側は水色と藤色と綿飴の白とが蕩けるように透けていました。北側はすっかり朝の空です。
ふと、煙草を吸う人がちいさくまあるくぽこぽこと吐き出す煙を、冬の白い息で再現できないかと思い、幾らか励みましたが上手くいきません。
そうしている間に今年最初のお日様がのぼり、頭の中で、今年も宜しくお願い致しますと伝え、満足したので帰ることにしました。
厚着をしていたけれど夜明けを待つ間に身体は冷えきって、帰り道のコンビニでホットの紅茶花伝を買いました。蓋をあけたら温かさが逃げてしまいそうだから、にぎりしめた儘で歩きます。そうすると革の手袋を通して温かさがじんわり伝わるのです。すずめが、明るい朝日の中で、お正月のしめ縄飾りのお米を啄ばんでいるのを見掛けました。あいらしくて晴れやかで、元旦にふさわしい光景だと思いました。
ずんずん歩き、家に着く少し前に紅茶花伝の蓋をあけました。甘さと温かさが染み込んでいくようでした。
はてさて、改めまして、新年明けまして御目出度うございます。
わたしにも此方を読んでくださるあなたにも、本年が優しく愉快で素敵なものとなりますように。
2018/01/01
魔女の宅急便が好きだということ
魔女の宅急便でキキの魔法が使えなくなり、ジジの声も聴こえなくなってしまうくだり。わたしはあのくだりが本当につらくて苦手なのです。どの映画にもつらい場面はあるけれど、この場面は静かにずしんと心臓に重りと寒気を乗せられる心地です。それは、好きなジブリの映画は?と聞かれた時に、魔女の宅急便!と即答できない理由でもあるのですけれど。
このくだりの解釈が色々あることはボンヤリ知っていて、それぞれの解釈を詳しくは知らなくて、原作は小学生の頃に図書館で借りて読んだきりです。そんな知識程度のわたしが先日ふと考えた勝手な解釈を語ってみても宜しいでしょうか。
今まで息をするようにできていたこと、人生を一緒に歩いてきた筈のものが、唐突に、今まで如何していたのか皆目解らなくなる瞬間があると思うのです。それは、絵を描くことだったり、歌うことだったり、そもそも生きることだったり。魔女の宅急便のあのくだりは、もしかしたらそれ≠ネのではないかなあと思いました。
私事ながら、ちいさな蓄音劇場を作り終えてから、曲が書けなくなりました。それまでは生きているだけで生まれかけの曲の一節がぽろぽろ自分の中からこぼれていたのに、何も出てこなくなってしまったのです。わたしにとって曲を書くことは、娯楽でもあったけれどそれだけではなくて、もっと自分と密接に繋がっていて、多分、書かないと歌わないと生きていけない、そういうものでした。息を吸ったら吐かないと苦しくなっちゃうそんな類の。これでも上手く説明できている訳ではないのですけれど。
色々な指標を一気に失ったと思っていた時期でしたので、自分が暫く曲を書いていない、自分の中に何の音楽もながれていないことに気付いた時は、嗚呼まったくもって空っぽになったなあと感じました。内臓をごっそり抜かれたような心地でしたが痛覚も一緒にどこかへいってしまったようで、案外平気で生きられました。丁度、ちいさな蓄音劇場はベストアルバムという立ち位置で、廃盤で再録をお待たせしていた楽曲も収録できたので、キリも良いような気がしたのです。
わたしはずっと、それこそ曲を書き始めた中学生の頃から、悲しいことがなくなって幸せいっぱいになったら、歌を書けなくなるかも知れないと考えていました。でも実際に書けなくなるのは、多分、欲望をなくした時です。○○をしたいとか、○○さんと一緒に居たいとか、○○が欲しいとか、今の自分を変えたいとか。そういうものを全部なくしたら、書けなくなるのだなあと思いました。わたしの場合です。
でも2017年の春に思いもかけないことが起きて、それから徐々に色々なことを思い出すことがました。と云うと記憶喪失みたいで若干の語弊があるのですが何卒ご容赦くださいませ。兎に角その春の一連の出来事は、幸福そのものです。
また歌いたい、お芝居がしたい、と思いましたが、怖くもありました。手を離すなんて罰当たりなことをしたから、吃驚するくらいに何にもできなくなってしまって、正直戸惑いました。思春期の頃からこれでもかと憧れて始めたことなのに、楽しさよりも恐怖心が上回るなんて。けれど自分には矢張り歌やお芝居が必要で、やればやるほど思い描くものとの落差に打ちのめされて、とっても情けなかったけど、また始めたいと思いました。
魔女の宅急便のクライマックスにデッキブラシで飛んだキキは、とっても格好良かったです。物語序盤のキキなら、どんなに強い風が吹いていても、きっとあんなにふらふら飛んだりしない、軽やかにトンボを助けられた筈です。けれど、落っこちたり、人とぶつかりそうになったりしながら、必死で飛んで間一髪でトンボを助けたキキは本当に素敵だった。生まれ持った魔女の血とお母様に貰った箒でなく、自分で選んだ血と箒で飛んだのですね。
前述の通り、暫く曲が書けませんでしたが、少し前に1曲ぽろんと書けました。そうしたら堰を切られたように何曲も何曲もこぼれてきて、これはこれでまた戸惑いました。どうも手が追いつかないし何より連日の寝不足に悩まされましたが、自分の音楽とたわむれるのは楽しくて、もっと甘えたで幼稚だった頃からいつでも、わたしの歌だけはわたしの傍に居てくれたことを思い出しました。
自分にとっての2017年はそんな1年でした。1文字に纏めることは難しいけれど、あと2文字許して戴けるならば、再確認の1年。好きなこと、好きなひと。再確認できました。同時に反省の1年でもあります。反省を大事に、精進してゆきたいです。
このくだりの解釈が色々あることはボンヤリ知っていて、それぞれの解釈を詳しくは知らなくて、原作は小学生の頃に図書館で借りて読んだきりです。そんな知識程度のわたしが先日ふと考えた勝手な解釈を語ってみても宜しいでしょうか。
今まで息をするようにできていたこと、人生を一緒に歩いてきた筈のものが、唐突に、今まで如何していたのか皆目解らなくなる瞬間があると思うのです。それは、絵を描くことだったり、歌うことだったり、そもそも生きることだったり。魔女の宅急便のあのくだりは、もしかしたらそれ≠ネのではないかなあと思いました。
私事ながら、ちいさな蓄音劇場を作り終えてから、曲が書けなくなりました。それまでは生きているだけで生まれかけの曲の一節がぽろぽろ自分の中からこぼれていたのに、何も出てこなくなってしまったのです。わたしにとって曲を書くことは、娯楽でもあったけれどそれだけではなくて、もっと自分と密接に繋がっていて、多分、書かないと歌わないと生きていけない、そういうものでした。息を吸ったら吐かないと苦しくなっちゃうそんな類の。これでも上手く説明できている訳ではないのですけれど。
色々な指標を一気に失ったと思っていた時期でしたので、自分が暫く曲を書いていない、自分の中に何の音楽もながれていないことに気付いた時は、嗚呼まったくもって空っぽになったなあと感じました。内臓をごっそり抜かれたような心地でしたが痛覚も一緒にどこかへいってしまったようで、案外平気で生きられました。丁度、ちいさな蓄音劇場はベストアルバムという立ち位置で、廃盤で再録をお待たせしていた楽曲も収録できたので、キリも良いような気がしたのです。
わたしはずっと、それこそ曲を書き始めた中学生の頃から、悲しいことがなくなって幸せいっぱいになったら、歌を書けなくなるかも知れないと考えていました。でも実際に書けなくなるのは、多分、欲望をなくした時です。○○をしたいとか、○○さんと一緒に居たいとか、○○が欲しいとか、今の自分を変えたいとか。そういうものを全部なくしたら、書けなくなるのだなあと思いました。わたしの場合です。
でも2017年の春に思いもかけないことが起きて、それから徐々に色々なことを思い出すことがました。と云うと記憶喪失みたいで若干の語弊があるのですが何卒ご容赦くださいませ。兎に角その春の一連の出来事は、幸福そのものです。
また歌いたい、お芝居がしたい、と思いましたが、怖くもありました。手を離すなんて罰当たりなことをしたから、吃驚するくらいに何にもできなくなってしまって、正直戸惑いました。思春期の頃からこれでもかと憧れて始めたことなのに、楽しさよりも恐怖心が上回るなんて。けれど自分には矢張り歌やお芝居が必要で、やればやるほど思い描くものとの落差に打ちのめされて、とっても情けなかったけど、また始めたいと思いました。
魔女の宅急便のクライマックスにデッキブラシで飛んだキキは、とっても格好良かったです。物語序盤のキキなら、どんなに強い風が吹いていても、きっとあんなにふらふら飛んだりしない、軽やかにトンボを助けられた筈です。けれど、落っこちたり、人とぶつかりそうになったりしながら、必死で飛んで間一髪でトンボを助けたキキは本当に素敵だった。生まれ持った魔女の血とお母様に貰った箒でなく、自分で選んだ血と箒で飛んだのですね。
前述の通り、暫く曲が書けませんでしたが、少し前に1曲ぽろんと書けました。そうしたら堰を切られたように何曲も何曲もこぼれてきて、これはこれでまた戸惑いました。どうも手が追いつかないし何より連日の寝不足に悩まされましたが、自分の音楽とたわむれるのは楽しくて、もっと甘えたで幼稚だった頃からいつでも、わたしの歌だけはわたしの傍に居てくれたことを思い出しました。
自分にとっての2017年はそんな1年でした。1文字に纏めることは難しいけれど、あと2文字許して戴けるならば、再確認の1年。好きなこと、好きなひと。再確認できました。同時に反省の1年でもあります。反省を大事に、精進してゆきたいです。
posted by 浮森かや子 at 03:11
| 日記
2017/12/12
下妻物語の掛け合いをしました
https://mqube.net/play/20171119531298
先日、白黒ヰズムで下妻物語の掛け合いをしました!
最初にお話が出たのは本格的な夏が来る前で、お盆過ぎに台本を貰って、わたしが御芝居から離れ過ぎていたこともあって収録に物凄く時間が掛かってしまったのですが。久々の掛け合いは矢張り凄く嬉しかったです。
そもそもわたしが下妻物語を知ったのはキリトさまが切っ掛けで、たしか当時、教えて貰う前から映画のタイトルくらいは知っていたのですが、キリトさまと知り合ってお奨めして貰って、キリトさまの好きな映画だったら観たいなあとぼんやりお店で借りてきて観てみると本当に面白くて。そして感銘を受けまして。
きちん、としたロリータを知ったのは下妻物語からだったと思うのです。BABY THE STARS SHINE BRIGHTというブランドを知ったのも下妻物語から。学校の制服か親の買ってきた御洋服しか着ていなかったわたしは、そもそもロリータのブランドなんてひとつも知りませんでした。だから御洋服に崇拝に近いくらいの恋をするという生き方は中々の衝撃でしたが、凄く納得できる人物像でもありました。
フリルが好きで、リボンが好きで、大学時代はひと通り御洋服に散財したわたしがロリータなファッションに手をつけなかったのは、多分、下妻物語を観ていたからです。これはわたしの勝手な思い込みでしかありませんが、ロリータな御洋服を着て暮らすには、生半可な気持ちではいけない。御洋服を崇拝して、自分を律して、生き方も口調も食べるものも頭に入れる文章も音楽も、何ひとつ自分の持つロリータの理想像から外れてはいけないと、きっちり膝下5センチの制服を着て日々過ごすわたしは、桃子ちゃんを見ていて思ったのです。今ではわたしは色んなロリータブランドの名前を知っていますが、BABY THE STARS SHINE BRIGHTだけは、何となく聖域のように感じています。
桃子ちゃんとイチゴちゃんの関係もとっても好きです。御洋服の趣味どころか、物事の受け取り方も表現の仕方も、あらゆるものが正反対で、合わなくて、喧嘩をする場面は胸がきゅっとします。でもなんていうか、今更ネタバレも何もないと思いながら一応ぼかしますが、良いのですよね、とっっっても。二人の笑顔がもう本当に素敵。
そんな大好きな下妻物語を掛け合いした訳なのです。先ず御覧戴きたいのがカバーイラストで、キリトさまが本物のDVDのカバーイラストをオマージュして薔薇の刺繍やフォントを描いてくださったのですがこれが本当に可愛くて。是非ともPCの大きいディスプレイでじっくり見て戴きたいのです。
そして何と云いましても、今回のキリトさまのイチゴちゃんがわたしは本当に好きなのです。キリトさまの御芝居は知り合う前から多々聴いていますし、わたしはキリトさまの声と御芝居が好きなのでお気に入りは沢山あるのですが、イチゴちゃんは中でも本当に好きです。ドスをきかせた口調の完成度と、未成年らしさというか、そこはかとなく果敢無げで尖っている感じ、何よりキリトさまの声がイチゴちゃんという人物像に凄く合っていて、最高なのです。イチゴちゃんの台詞だけ集めたファイルを時々外でも聴いているくらい。こればかりは言葉では伝えきれませんので、聴いて戴きたいなあと思います。
キリトさまの御芝居の好きだなあと思うのは、息遣いまで演じている人物そのものなのです。今回の掛け合いで云えば『特攻服でビシッときめようと思ったんだけど』の直後のちいさいため息ですとか。凄くイチゴちゃんなのです。それから、演じている人物のその瞬間おもてに出ていない人間性が、語尾のちょっとした余韻にちらっと垣間見える瞬間がとても良いなあと思います。ぶっきらぼうに聴こえるのに、ほんの少し滲んでしまう優しさとか、それは台本の外にあるもので、感情というより人間性で、その場面の進行には関係のないものだったりするのですけれど。そういうものが、まるで御芝居じゃないみたいに自然に滲んでいて、とっても素敵だなあと思うのです。
収録中は正直なところ、もう自分に御芝居はできないんじゃないかって、半ば絶望もしておりましたが、大好きなタイトルで、敬愛する方と一緒に掛け合いをさせて貰う中で、御芝居がしたいしたいと足をばたばたさせていた自分が少し息を吹き返したような気がしました。
先日、白黒ヰズムで下妻物語の掛け合いをしました!
最初にお話が出たのは本格的な夏が来る前で、お盆過ぎに台本を貰って、わたしが御芝居から離れ過ぎていたこともあって収録に物凄く時間が掛かってしまったのですが。久々の掛け合いは矢張り凄く嬉しかったです。
そもそもわたしが下妻物語を知ったのはキリトさまが切っ掛けで、たしか当時、教えて貰う前から映画のタイトルくらいは知っていたのですが、キリトさまと知り合ってお奨めして貰って、キリトさまの好きな映画だったら観たいなあとぼんやりお店で借りてきて観てみると本当に面白くて。そして感銘を受けまして。
きちん、としたロリータを知ったのは下妻物語からだったと思うのです。BABY THE STARS SHINE BRIGHTというブランドを知ったのも下妻物語から。学校の制服か親の買ってきた御洋服しか着ていなかったわたしは、そもそもロリータのブランドなんてひとつも知りませんでした。だから御洋服に崇拝に近いくらいの恋をするという生き方は中々の衝撃でしたが、凄く納得できる人物像でもありました。
フリルが好きで、リボンが好きで、大学時代はひと通り御洋服に散財したわたしがロリータなファッションに手をつけなかったのは、多分、下妻物語を観ていたからです。これはわたしの勝手な思い込みでしかありませんが、ロリータな御洋服を着て暮らすには、生半可な気持ちではいけない。御洋服を崇拝して、自分を律して、生き方も口調も食べるものも頭に入れる文章も音楽も、何ひとつ自分の持つロリータの理想像から外れてはいけないと、きっちり膝下5センチの制服を着て日々過ごすわたしは、桃子ちゃんを見ていて思ったのです。今ではわたしは色んなロリータブランドの名前を知っていますが、BABY THE STARS SHINE BRIGHTだけは、何となく聖域のように感じています。
桃子ちゃんとイチゴちゃんの関係もとっても好きです。御洋服の趣味どころか、物事の受け取り方も表現の仕方も、あらゆるものが正反対で、合わなくて、喧嘩をする場面は胸がきゅっとします。でもなんていうか、今更ネタバレも何もないと思いながら一応ぼかしますが、良いのですよね、とっっっても。二人の笑顔がもう本当に素敵。
そんな大好きな下妻物語を掛け合いした訳なのです。先ず御覧戴きたいのがカバーイラストで、キリトさまが本物のDVDのカバーイラストをオマージュして薔薇の刺繍やフォントを描いてくださったのですがこれが本当に可愛くて。是非ともPCの大きいディスプレイでじっくり見て戴きたいのです。
そして何と云いましても、今回のキリトさまのイチゴちゃんがわたしは本当に好きなのです。キリトさまの御芝居は知り合う前から多々聴いていますし、わたしはキリトさまの声と御芝居が好きなのでお気に入りは沢山あるのですが、イチゴちゃんは中でも本当に好きです。ドスをきかせた口調の完成度と、未成年らしさというか、そこはかとなく果敢無げで尖っている感じ、何よりキリトさまの声がイチゴちゃんという人物像に凄く合っていて、最高なのです。イチゴちゃんの台詞だけ集めたファイルを時々外でも聴いているくらい。こればかりは言葉では伝えきれませんので、聴いて戴きたいなあと思います。
キリトさまの御芝居の好きだなあと思うのは、息遣いまで演じている人物そのものなのです。今回の掛け合いで云えば『特攻服でビシッときめようと思ったんだけど』の直後のちいさいため息ですとか。凄くイチゴちゃんなのです。それから、演じている人物のその瞬間おもてに出ていない人間性が、語尾のちょっとした余韻にちらっと垣間見える瞬間がとても良いなあと思います。ぶっきらぼうに聴こえるのに、ほんの少し滲んでしまう優しさとか、それは台本の外にあるもので、感情というより人間性で、その場面の進行には関係のないものだったりするのですけれど。そういうものが、まるで御芝居じゃないみたいに自然に滲んでいて、とっても素敵だなあと思うのです。
収録中は正直なところ、もう自分に御芝居はできないんじゃないかって、半ば絶望もしておりましたが、大好きなタイトルで、敬愛する方と一緒に掛け合いをさせて貰う中で、御芝居がしたいしたいと足をばたばたさせていた自分が少し息を吹き返したような気がしました。
posted by 浮森かや子 at 23:35
| 日記