2016/01/25

ドーナツ哲学

近頃はよくドーナツについて考えています。

ドーナツの穴とは、抜きとられたものです。空間です。指を入れて遊ぶこともできるし、リボンを通して首飾りにすることもできます。つまりは隙間で、存在しないものです。しかし、ドーナツをドーナツたらしめているものもまたドーナツの穴です。一部の例外を除き、穴がなければ、誰もが思い描くドーナツの定義を満たすことは困難になります。

穴はドーナツと一緒に常に存在して、ドーナツが食べられてしまうのと一緒に消えてなくなります。ドーナツが存在する限り、穴はくっきりと存在し続けます。穴を空けると云うのは、そこに永遠を作ることなのかもしれません。ドーナツの穴を腐らせることも、ぎゅうっと握り潰すことも風化させることもできない。穴が空いて永遠を得て、ドーナツと一緒に食べられる。ドーナツの穴は何方にも冒せない領域のように思います。

ちらりと調べたところ、ドーナツについて哲学されている方は世の中に沢山おいでのようです。ドーナツの穴を食べる方法を論ずる方もいらっしゃるようですが、何だか難しそうなお話でしたのでここでは割愛致しまして。

そんなわたしのドーナツ哲学。
posted by 浮森かや子 at 01:10 | 日記

2016/01/05

二〇一六年 事始め

ごく幼い頃から自分に課している制限の中に、『死ね、と、死にたい、と云う言葉を口にしない』と云うものがございます。理由はごくごく一般的なものですし、御説教じみてもまいりますので割愛致しますとして、今のところ、なんとかまもり続けています。

ではわたしが『死にたい』とか『死ね』とか微塵も考えず清廉潔白に生きているのかと申しますと、数え切れないくらい考えています。悲しくて、屹度この先も悲しいだろうから、この時点から向こう、存在していたくない、一層、と。そんなふうに。直ぐに思い出すことはできませんが、『死ね』と過ぎってしまったことも有るかもしれません。

でも、生きているって有り難いことです。中学時代の同級生で、当時は教室でよく話していた、でも卒業してからは殆ど交流のなかった男の子が、大学時代に突然亡くなった時、昨日まで思い出しもしなかった同級生の、顔を名前を幾つもの他愛ないやり取りを思い、止め処なくわあわあ泣きました。御通夜では彼のお祖母様が泣き崩れていて、自分の祖母と重なり、こんなに悲しい光景はないと思いました。お互いに大人になって、もう二度と会うことがなくても、どこかで笑ったり怒ったりしながら暮らしている。もしかしたらいつか偶然すれ違い、『久し振りだね』なんて会話を交わすかも知れない。好きだった人達にもあんまり好きになれなかった人達にも、そんな当たり前を自分が無意識に思い描いていたのだと初めて知り、でも其れは全部生きていてこその、日常のような願望です。

美味しいものを食べると、これはあの人が好きそう!と思うと、食べて貰いたくなります。一緒に食べたくなります。笑顔が見たくなります。死んでしまえばかないません。御仏壇に供えても、声が聴きたい。美味しいよって笑って欲しい。でも、こればっかりは何をしたってもう絶対にかなわないのです。お家に持って行ったって、『よく来たなあ』と、もう云って貰えない。

昨年はそんなことをよく考える一年になりました。生きていても、健康な間しか会いたい人に会いにいけません。つらそうな時に抱きしめたくても、他愛のないやり取りで笑い合いたくても、一緒にお出掛けがしたくても、並んで夕陽を見るのも空気の匂いを感じるのも、健やかでこそです。人には寿命があるから、当たり前の幸せにもいつか必ず御終いが訪れます。だから今日がどんな日でも、手でペンを持ち、足を動かして、思いを伝えて、聴くことのできる今は、本当はとても幸せな価値あるものです。恩返しをしたいことがわたしには沢山あるので、穏やかな時間が少しでも長く続きますようにと願わずにいられません。

わたしの楽曲を聴いてくださる方の中には、多分実際にお会いしたことがない方もいらっしゃるかと存じますが、一度だけ御耳を傾けてくださった方でも、これからもうずっとお会いすることのない方でも、心から感謝を申し上げたいし、どこかの土地で、その方とその方の大切な方達が、笑ったり怒ったりしながらお健やかに暮らしておいでなら嬉しいと思います。

旧年中も皆様方より温かい御気持ちを沢山頂戴し、有り難うございました。
本年が実りある優しい日々となりますように。
posted by 浮森かや子 at 01:58 | Comment (0)  | 日記

2015/08/29

まつげうさぎのおはなし

まつげうさぎの前身は、幼蚕文庫としての活動を始めるほんの少し前まで、スケッチブックに毎日描いていた絵本の主人公なのです。その時の彼?彼女?はうさぎではなかったのですけれど。特別なあらすじもおわりもなく、ただただ、主人公が森の奥へ奥へと迷いこんでいく御話でした。

実は、この絵本はわたしの黒歴史の凝縮です。表現の手立てを持ち合わせていなくて、日常の些細なことで笑い合える相手も居なくて、眩しいものに身を縮めていました。当時、mixiと云うものが盛んでしたが、コミュニティサイトでなぜかわたしは独りぼっちを感じていたのです。其れなら覗かなきゃ良いのに馬鹿ですね。でも、ほんの少しでも繋がりを断ちたくなかったのかも知れません。

スケッチブックは暗い色に塗りつぶされていくし、色鉛筆は青と緑と灰色系統ばかりが短くなるし、主人公はいつもどんよりした目をしていました。歌は相変わらず書いていたけれど、ひとりで書いて、ひとりで歌うだけでは、溢れてくるものを循環させるには少し足りなかったのです。

まつげうさぎは、いつもどこか愉快そうにしていると思います。其れにとても自由気ままです。どのジャケットにも、盤面にも、暢気そうな表情でぴょこんと顔を覗かせています。ラインダンスにも興じます。其れは、密やかなわたしの喜びです。

まつげうさぎのまつげにも由来はあるのですけれど、本当にくだらないことなのです。恥ずかしくてもう何方にも云えません笑。こんなにも大事にしてしまうなんて、嗚呼単純です。そんな、まつげうさぎのおはなし。
posted by 浮森かや子 at 22:02 | Comment (0)  | 日記